現代剣道の萌芽は江戸時代中期といわれています。
その竹刀防具打込み稽古法がはじまって以来、剣道(術)は三百年垂んとする歳月を受け継がれてきましたが、現在に至るまでに剣道存続の危機は大きく2度ありました。
その一つは「明治維新」期です。
ひとくちに「明治維新」といっても定義は難しいのですが、概ね1867年(慶応3年)の「大政奉還」から「王政復古」「戊辰戦争」「五箇条の御誓文」「版籍奉還」「廃藩置県」「岩倉使節団」「征韓論」そして1877年(明治10年)の「西南戦争」までといってよいでしょう。
明治の世となり、1871年(明治4年)に「散髪脱刀令」が公布されます。そして1876年(明治9年)には「廃刀令(帯刀禁止令)」が発せられ、刀は無用の長物と化します
当然、剣道(術)などは一顧だにされなくなります。旧武士階級の人たちは侍の魂といわれる刀を奪われることへの不満がつのります。
また、秩禄処分(俸給の支給中止)など、明治政府の次々と打ち出す政策に、氏族の不満は収まらず、また生活に困窮したこともあって各地で反乱が起こります。
1874年(明治7年)の「佐賀の乱」をはじめとして、1876年(明治9年)には「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など反乱が続きますが、いずれも政府軍に鎮圧されます。
そして1877年(明治10年)の「西南戦争」に政府軍が勝利して明治政府が盤石となります。
この西南戦争で警視庁の「抜刀隊」が活躍したことにより、剣道が見直され警察術科に組み込まれることとなりました。
まさに「風前の灯火」であった剣道が息を吹き返したのです。
もう一つの危機は「太平洋戦争」の敗北です。
1941年(昭和16年)12月から始まり3年8ヶ月に及ぶ「太平洋戦争」は1946年(昭和20年)8月に終戦となります。
戦争に敗れたわが国はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれます。連合国といっても実際はアメリカの占領下です。
1945年(昭和20年)9月、「日本教育制度改革に関する極東委員会司令」
[… すべての教育機関において、軍事科目の教授はすべて禁止さるべきである。 …中略… 剣道のような精神教育を助長する昔ながらの運動もすべて廃止せねばならぬ。体育はもはや「精神教育」と結びつけられてはならない。純粋な集団体操、訓練以外のゲームや娯楽的運動に、もっと力を入れるべきである。もし軍務に服したことのあるものが体操教師として、また体育スポーツに関係して採用されるときは、慎重に適格審査をされねばならない。…]
が発せられます。
1946年(昭和21年)10月、「大日本武徳会」は正式解散を行い、東京丸ビル精養軒において解散式を行いました。かくして1895年(明治28年)4月創立以来一貫して日本武道総本山としてその振興発展に絶大の貢献をした大日本武徳会の50年に及ぶ歴史に幕を閉じました。
ところが翌月、連合軍当局はすでに解散した大日本武徳会に対し、自主解散を認めず文部省を通じて「解散命令」を出しました。
解散を命ぜられた結果として武徳会所有の全財産は政府に没収されることとなり、武徳会本部の「武徳殿」はじめとして全国各地にあった武徳殿その他の一切の財産が没収されるという惨めな状態に立ち至りました。
アメリカによる占領期間は6年8ヶ月です。その占領期間丸々が剣道空白期間といえましょう。
1952年(昭和27年)、「サンフランシスコ講和条約」が発効し、剣道が解禁となり同年「全日本剣道連盟」が設立されます。
そのとき剣道は、武道色を抜いた「競技一辺倒のスポーツ」として出発しました。
今思うと、この6年8ヶ月に及ぶ空白期間と競技一辺倒という再出発の仕方に「伝統の分断」があったといわざるを得ません。
一方、競技スポーツ化への努力の甲斐あって、1955年(昭和30年)に剣道は国民体育大会(「国体」)の種目に加えられます。
〝一人前のスポーツ〟と認められたのです。
1964年(昭和39年)には前「東京オリンピック」が開催され、柔道は正式種目となります。その競技会場として「日本武道館」が設立されました。
剣道は、日本古来のスポーツということで公開競技として参加します。
約2時間半にわたって剣道(日本剣道形、試合、居合道、杖道、古流)を紹介しました。
1964「東京オリンピック」の時、私は高校2年生でした。
武道色を抜き競技スポーツとして復活した剣道において、多くの剣道人は〝必ずや〟と、剣道のオリンピック入りを志向していたと思われます。
また「国際化」を目指し、1970年(昭和45年)には「国際剣道連盟」が設立され、「第1回世界剣道選手権大会」を日本で実施しました。
このような「競技化」「国際化」の流れの中で、旧来の指導者層などから取り沙汰されたのが、〝剣道は何か〟でありました。
〝このまま競技一辺倒でよいのか〟と疑問視する多くの剣道人の声におされ、1971年(昭和46年)全剣連に「理念委員会」が発足します。
そのころ剣道界の巷では盛んに〝剣道は武道かスポーツか〟の議論が喧しく行われていました。
今や世界の仕組みのなかで、eスポーツや囲碁・将棋などと同じく〝武道そのものがスポーツの範疇に属す〟とされているので、〝剣道は武道かスポーツか〟の議論は意味のないものとなっております。
先ほど1955年(昭和30年)に剣道が国民体育大会の種目入りしたと申しましたが、奇しくも本年、佐賀県で開催される大会から、名称が「国民スポーツ大会」に変更になります。「国体」から「国スポ」へ。
話をもどし、「理念委員会」では3年余りにわたる侃々諤々の討議を重ねました。その結果1975年(昭和50年)3月20日、「剣道の理念」と「剣道修錬の心構え」が制定されました。
https://www.kendo.or.jp/old/news/kendo-rinen.html
すなわち他の競技スポーツとは一線を画した「武道への復活宣言」であり、分断された「伝統の復活」を果たしたのです。
爾来49年。剣道は順調な普及と発展を遂げ、愛好者数は優に戦前を凌ぎ、令和6年(2024年)3月末日における剣道有段者の登録数は2,056,088人となりました。
特筆すべきは、そのうち女性は621,142人で全有段者数の30%超を占めるようになったということです。
戦前においてはほぼ皆無であった女性の愛好者が、全体の三分の一を超えるようになるとは誰が予想できたでしょう。
世の中が、また剣道そのものが、どのように変容し推移してきたのでしょうか。
次回は、女子剣道の隆盛について述べることといたします。
つづく